イ ラ ン 編

シルクロード6000キロ
極限の旅
1978 .8/9〜8/17   9日間

1978年8月のイランは、パーレビ王朝の末期であった。
1ヶ月後の9月、アメリカ寄りな国王派と反政府派との戦闘が始まり、1979年1月には国王は
国外退去している。

1979年4月1日、ホメイニ師によるイラン革命が起こり、イラン・イスラム共和国が樹立された。

「なにかあるのかな?」と思われる節がなかったわけではない。
毎夜兵士を満載した戦車が長い隊列を組んで一定方向に走って行った。
撮影禁止箇所があったし、首都テヘランでは3人以上での立ち話が禁止されていた。

でもまさか間もなく革命が起こり、国の体制が大きく変わるとは想像もできなかった。


国 境 越 え

国境の町・イスラムカーラでアフガニスタンの旅は終わった。
ガイドのカユムとはここでお別れ。「また会いたいですね」というと
「イム シャラー」(神のご加護があれば)といった寂しそうな顔が忘れられない。

イランとの間には200mの中立地帯がある。
鉄条網が張り巡らされた野原で、銃を持った兵士に小さな木戸を開けてもらって、
歩いてアフガニスタン税関小屋まで行く。
振り返るとカユムが手を振っていた。
そのとき私は妙に気がかりだった。彼とは絶対に再会できないような気がした。
タリバーン政権下では多くの知識階級人が虐殺されたと聞く。
彼は無事に生き延びることができただろうか。
アフガン民族の誇り高い好青年だった。


二国間の国境も同じように鉄条網が張り巡らせてあり、大勢の銃を持った兵士の間を通り
イラン側の中立地帯を200m歩いて、イランの税関で入国手続きをした。

通関は厳しくなかったが、書類が面倒だった。
イスラム式(?)で、夫や両親の宗教まで書かされた。

イランに入国してまず気がついたことは
道路がよくなったことである。

同じアジアハイウエーなのだが、道幅が広くなり舗装されていた。
バスもよくなって、窓はスムーズに開閉できたし、クッションもよく快適だった。

石油産出国の国力をまざまざと見せられた。




メシェッド

イラン国教であるイスラム教のシーア派の聖地である。
イラン全土から巡礼者が集まり、賑やかである。
街は聖者・イマーム レザーの廟を中心にたくさんのモスクや神学校があり、
バザールにも商品が溢れ活気があった。
標高も高くなって、灼熱地獄から開放された。

欧米寄りなパーレビ王朝の政策で、規律がゆるいのか、若い女性は顔を隠していないひとが
多かった。

キャラバンサライ(巡礼宿)に泊まった。
ほんとうに眠るだけの宿で、巡礼者たちは自炊していた。

イラン側国境で、積荷満載のトラック 景気よさそう アジアハイウエー 舗装されて広い 
聖者 イマーム レザの廟 門前の賑わい
神学校生の兄弟 キャラバンサライ

コルガン

カスピ海そばの畑の中の寒村で、どこやら日本の農村に似たような景色だった。

カスピ海
コルガンへの道すがらカスピ海に立ち寄った。
ロシアら旧ソ連諸国とイランの間にある世界最大の湖。海と同じように見えた。
日本全体の面積に、インドネシアのジャワ島を足しても足りない大きい湖。塩湖。
最大水深 1,025m  平均水深 209m。
キャビアのチョウザメが生息し、石油生産地でもある。

カスピ海に近づくと、畑が現れ緑も多くなってきた

そして大きな大きな海のような湖に到着した。カスピ海だ。
水平線の向こうはソ連だが、対岸の景色は見えない。

カスピ海で泳いだ。

大変な遠浅だった。10m進んでも水深はやっと膝下ぐらいだった。
足が着いてしまい、泳ぐには遠くまで行かなければならない。

それで空を見ながらゆったり浮かんでいた。  突然何かがぶつかった。

次の瞬間心臓が止まるかと思うほど驚いた。
後ろ側に10人ほどの男性が立っていた。大きな目を意味ありげに見開いて。
一瞬固まって、それから「きゃあ!!!」と叫んだ。
その瞬間全員が私に迫ってきて体中をつかんだ。

夢中でもがいても逃げられない。「止めて!  助けて!」とわめいていたら
メンバーの男性たちが追い払いに来てくれた。
わけのわからないことを叫びながら逃げて行った。着衣のままだった。

その間5分もなかったと思うが、とっても恐ろしくて長く感じた。
水際から離れたところにいた女性たちが襲われた。
泳ぎ始めるまでだれもいなかったのに。

後で聞いてわかったことだが、イスラム教徒の女性は、肌を他人に見せない。
当時のイランは規律がゆるやかだったのか、私たちとかわらない服装の人もいたし
顔まで隠している人は少なかった。  それにしても、
大勢の女性が水着になって泳いでいる光景はさぞ刺激的だったのだろう。
認識不足だった。全員で猛省した。

コルガン近郊の農村 農村
カスピ海で泳いだ メンバーはみんな若かった カスピ海のレストラン キャビアが美味しかった
コルガンの墓地 墓標 家族の功績などもかいてあるそうだ

テヘラン

カスピ海地方を後に、イラン最高峰のデバマンド山(5671mの火山)の山麓をテランに向かう。
富士山によく似た形のデマバンド山、郷愁にかられる。

テヘランはイランの首都、当時の人口400万人。 大都会だ。
道路も完全に舗装され、街路樹も整然と並んでいる。車も増えた。
中高層ビルも見えて、中東の誇る近代都市の様相を呈している。

観光箇所も豊富で、宮殿、廟、モスク、博物館、美術館、バザールとあり魅力溢れる都市だった。
私たちと変わらない服装をしている若い女性も多くて、他の都市よりも豊かで開放的な感じだった。
(現在は旅行者もスカーフで髪を覆わなければならない。)
標高1200mの高原都市なので涼しく、人工の池や木陰、ベンチ、カフェなども整備されていて
快適に観光できる条件が揃っていたのだが・・・・

しかしこのとき既に革命前の不穏な空気が漂っていた。8ヵ月後にイラン・イスラム革命が起きた。
★ 撮影禁止箇所があった。私は以前にエジプトで撮影後兵士に追いかけられた前科(?)があるので
カメラはしまっておいた。
★ 3人以上で立ち止まって話しをしてはいけない。
私たちは1mぐらい離れて無言で歩き、どうしても話したいときは振り返らず歩きながら話した。
★ 毎夜半、ホテル前の幹線道路を兵士を満載した多数の戦車が一定方向に走って行った。
東へ東へと。多分その方角に反政府のイスラム教の拠点があったのだろう。

こういう状況について報道があったのだろうが、ガイドはいっさい触れなかったし、
アラビア語のビラなどをみても何もわからなかった。
異郷で拘留されたら大変!ガイドのいう注意事項を厳守した。

体調を崩して後半の2日間ホテルで寝ていた。
日本を発ってから半月、過酷な旅を好奇心で続けてきた。一日も休まずに。
でももう限界。休みたかった。
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というわけでテヘランには4日滞在したが、写真が少ししかありません。

デバマント山の麓を走ってテヘランへ向かう 放牧の牛の群れ 車の方が待つ
ゴレスタン宮殿 博物館や庭園が見もの セパサラールモスク 壁画や図書館が見もの
考古学博物館 紀元前6000年からの美術品陳列 アマスーメ廟

イラン中央銀行地下にある「宝物

王室宝物庫(撮影禁止で写真なし)

イラン中央銀行の地下にある歴代王家の宝物庫。
戴冠式の王冠とティアラ、184カラット世界最大のダイヤ、純金に宝石を散りばめた地球儀など、贅の限りを尽くして集められた宝物に圧倒された。
宝物の入ったガラス箱の手前に手すりがあってそれも含めてすべてのものに触ってはいけないといわれた。

見学中突然サイレンがなって電気が消えた。
「動くな」という鋭い声とともに電気が点いた。大勢のガードマンが銃を持って立っていた。
「手すりに触った者がいる、申し出るように」。
日本語に訳されたら「はい、触りました」 中年の日本の男性だった。
さっとガードマンに囲まれた。「だれも動くな」といってから、その男性とガイドを連れて出て行った。

「他に触った人はいませんね。入館前に厳重にご注意しました。規則です。必ず守ってください。」

見学は中断されて全員出されてしまった。
凄く恐ろしかった。そして恥ずかしかった。

日本ではそうまでしなければならないような宝物は公開しない。
その感覚で入館し、注意されたことも忘れてなにげなく触ったのだろう。
「日本人め!途中で出されちゃったじゃないか、どうしてくれる!」
といわれているようでそそくさと帰ってきた。



イスファハン

テヘランの南340km、標高1570mのオアシス都市、 当時の人口50万人。
イラン最古の歴史を持つ古都で、11〜12世紀イランの首都であった
16世紀の宮殿やモスクが立ち並び、豊かな水をたたえた川には美しいは橋がかかっている。
イスラム世界で最も美しい都市といわれている。
バザールには高級絨毯やブラス製品、金銀細工製品、スパイスなど目を見張るような品が
溢れていた。

テヘランのような緊迫感はなかった。
飛行機での日帰り旅行だったが、せめて2〜3泊してじゅっくり見物したかった。

謁見用の宮殿 20本の柱が池に映って綺麗 入り口 色が退化してよくでていない
マスジデ シャー (金曜日モスク) モスジア シェイク ロトフラー(王家のモスクだった)
ジョンバン ミナレット アストヴァトザトジン教会(アルメリアキリスト教会)
ハージュ橋(2階テラスで王が宴を催した) 見事なタイル 絨毯の図案に用いられる

タブリッツ

テヘランに戻りタブリッツへ向かう。
13世紀にイル ハン国の首都として栄えた古都。標高1340m
アジアハイウエーの西端に位置し、シルクロードの要衝としても重要な都市だった。
しかし地震多発地帯のため、残っている遺跡が少ない。

観光地としての賑わいはなかったが、昔のシルクロードが偲ばれる街だった。

テヘランから600km。8時間かかった。
道路とバスがいいし、体調もよくなってドライブを楽しむことができた。
政情不安も感じなかった。

地震に弱そう 巡礼宿に泊まった夜中気温が0度になって目が覚めた
アルゲ イル ハン時代の要塞の一部 素朴な村人
ブルーモスク 修復中だった ブルーモスクの内部

国境へ

イラン最後の大きな街タブリーツを後に、マクー経由で国境のバルガンに着く。
「忍耐の極限」を強いられる国境越えだった。詳細は次号で。

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